髙山清司被告 上告取り下げで 嵐呼ぶ山口組の若頭不在
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指定暴力団・六代目山口組ナンバー2の若頭・高山清司被告(66)が収監される。男性から4千万円を脅し取ったとする恐喝罪に問われ、1、2審で懲役6年の実刑判決を受けた後、最高裁に上告していたのを取り下げ、刑が確定したためだ。高山被告は、山口組の篠田建市(通称・司忍)六代目組長と同じ「弘道会」出身。常に篠田組長を支え続けた“懐刀”で、現体制のキーマンでもある。服役による不在は組全体に影響を及ぼしかねないとみられているが、最近は服役を見越した引き締めとも取れる動きが続いていて、上告取り下げは「ナンバー2不在でも体制を維持できる環境が整った証」という見方も浮かぶ。
■直参組長を緊急招集
捜査関係者によると、5月26日午前、神戸市灘区の山口組総本部に「直参」と呼ばれる直系組長が集まった。直参を集めた会合は毎月上旬に開かれるのが定例だが、このときは緊急招集がかけられた。
直参の緊急会合が開かれるのは重大な局面を迎えたときとされる。平成17年7月には渡辺芳則五代目組長の引退と篠田建市若頭(当時)の六代目就任が発表されたほか、暴力団対策法施行(4年)直前や宅見勝若頭射殺事件(9年)直後にも開かれたことがある。
今回のきっかけは「高山被告の上告取り下げ」だった。この席上、高山被告は、山口組最高幹部ポストの一つ「統括委員長」に座る「極心連合会」(大阪府東大阪市)の姜弘文会長(通称・橋本弘文)(67)を、服役中の代理として指名したという。
姜会長は、山口組系の有力組織・山健組の出身。山健組は「山健にあらずんば山口にあらず」とまで呼ばれた“保守本流”の直系組織だ。名古屋本拠の弘道会と地元・神戸本拠の山健組は、とかく比較されがちだが、姜会長は弘道会に近い存在だったという。
高山被告は17年、山口組若頭となった。篠田組長が同年に六代目を襲名し、自身の出身母体で名古屋を本拠とする弘道会会長の高山被告を登用したのだ。
以降、山口組の信賞必罰姿勢は強まり、直参の管理体制が厳格化されたといい、采配(さいはい)は直参の“長男格”である若頭の高山被告が振るっているといわれている。こうした高山被告の不在は、組織の要が抜けるというまさに重大局面だった。
■「いつもすまんな」
高山被告が問われた恐喝罪は、別の直参組長とともに建設業の男性からみかじめ料名目で4千万円を脅し取ったというもの。1、2審判決は、17年12月~18年12月に計3回、京都市内のホテルなどで男性から計4千万円を脅し取った、と認定した。
高山被告は1審京都地裁の初公判で「恐喝しようと思ったことはなく、全く関知していない。私は無実です」と述べるなど、一貫して無罪を主張。
しかし、昨年3月の地裁判決は、高山被告が京都市内の料亭で男性に「今後もよろしく」と述べた点を、「男性を配下とし、みかじめ料の支払いを求めた発言だった」などと共謀を認定。「実行行為を分担した責任は免れない」と指摘し、懲役6年の実刑判決を言い渡した。
高山被告は控訴した。しかし、今年2月の2審大阪高裁判決も、高山被告から「いつもすまんな」と声をかけられたなどとする被害男性の供述を「ほかの関係者供述などと整合しており、信用できる」と判断。高山被告は別の直参組長らの恐喝を了解していたとして、控訴を棄却。高山被告はすぐさま上告した。
■信賞必罰の姿勢強く
一貫して無罪主張を続けた中での上告取り下げ。「早めに服役しておけば、体が動けるうちに『復帰』できると考えたのではないか」。ある捜査関係者はこう分析する。1年近く勾留されていたため、服役は5年ほどになる見込みだ。
「早期復帰」を目指すのであれば、もともと上告しないという手もあったかもしれない。これについては「その後に予想される若頭不在の体制に向け、組織を引き締めるための時間が必要だったのではないか」とみている。
この見方に沿うかのように、1審で有罪判決を受けて以降、直参の除籍や絶縁処分が相次いだ。
理由はそれぞれ違うようだが、「組織のタガが緩まないよう、信賞必罰を厳しくしたのではないか。例えば、資金繰りが苦しいとみられていた組織を退けているが、これも厳しい姿勢を見せたかったのだろう。社会的な暴力団排除の機運が高まり、シノギ(資金源)がどんどん細くなる中、資金力がある組織をつぶす必要はない」(捜査関係者)。
突然の上告の取り下げはこうした引き締めに一定のめどがついたと受け取ることができる。
■「嵐」呼ぶ若頭不在
山口組史上、現役若頭の不在はたびたび「嵐」を呼び起こしている。
代表的なのが、昭和59年から5年近くにわたり山口組と一和会との間で繰り広げられた「山一抗争」。
56年7月、山口組の全国展開を進め、現在の体制の礎を築いた田岡一雄三代目組長が死去した。後継の有力候補で、武闘派といわれた山本健一若頭は収監中だったが、刑の執行が停止されるほど持病が悪化。57年2月に帰らぬ人となる。
すると四代目の座をめぐり、山本健一若頭の後を継いだ竹中正久若頭と、山本広組長代行の間で主導権争いが表面化。59年6月に竹中若頭の四代目襲名が決定したが、山本広組長代行を支持するグループが「一和会」を結成すると、山口組との抗争に突入。竹中四代目組長と中山勝正若頭が一和会系のヒットマンに射殺されるなど血みどろの抗争になり、一和会が解散に追い込まれるまで続いた。
山口組にとって、こうした抗争は避けたいはずだ。金がかかるという理由に加え、平成24年に暴対法が改正され、新設された「特定抗争指定」を受ける恐れがあるからだ。指定を受けると、指定区域内にある事務所への出入りや5人以上の組員が集まることを禁じられる。破れば即逮捕の対象になり、一切の活動が封じられることになる。
組織の引き締めを成し遂げた上で早期復帰を図る-。捜査関係者らは、高山被告の上告取り下げをそうしたシナリオだとみている。
指定暴力団・六代目山口組ナンバー2の若頭・高山清司被告(66)が収監される。男性から4千万円を脅し取ったとする恐喝罪に問われ、1、2審で懲役6年の実刑判決を受けた後、最高裁に上告していたのを取り下げ、刑が確定したためだ。高山被告は、山口組の篠田建市(通称・司忍)六代目組長と同じ「弘道会」出身。常に篠田組長を支え続けた“懐刀”で、現体制のキーマンでもある。服役による不在は組全体に影響を及ぼしかねないとみられているが、最近は服役を見越した引き締めとも取れる動きが続いていて、上告取り下げは「ナンバー2不在でも体制を維持できる環境が整った証」という見方も浮かぶ。
■直参組長を緊急招集
捜査関係者によると、5月26日午前、神戸市灘区の山口組総本部に「直参」と呼ばれる直系組長が集まった。直参を集めた会合は毎月上旬に開かれるのが定例だが、このときは緊急招集がかけられた。
直参の緊急会合が開かれるのは重大な局面を迎えたときとされる。平成17年7月には渡辺芳則五代目組長の引退と篠田建市若頭(当時)の六代目就任が発表されたほか、暴力団対策法施行(4年)直前や宅見勝若頭射殺事件(9年)直後にも開かれたことがある。
今回のきっかけは「高山被告の上告取り下げ」だった。この席上、高山被告は、山口組最高幹部ポストの一つ「統括委員長」に座る「極心連合会」(大阪府東大阪市)の姜弘文会長(通称・橋本弘文)(67)を、服役中の代理として指名したという。
姜会長は、山口組系の有力組織・山健組の出身。山健組は「山健にあらずんば山口にあらず」とまで呼ばれた“保守本流”の直系組織だ。名古屋本拠の弘道会と地元・神戸本拠の山健組は、とかく比較されがちだが、姜会長は弘道会に近い存在だったという。
高山被告は17年、山口組若頭となった。篠田組長が同年に六代目を襲名し、自身の出身母体で名古屋を本拠とする弘道会会長の高山被告を登用したのだ。
以降、山口組の信賞必罰姿勢は強まり、直参の管理体制が厳格化されたといい、采配(さいはい)は直参の“長男格”である若頭の高山被告が振るっているといわれている。こうした高山被告の不在は、組織の要が抜けるというまさに重大局面だった。
■「いつもすまんな」
高山被告が問われた恐喝罪は、別の直参組長とともに建設業の男性からみかじめ料名目で4千万円を脅し取ったというもの。1、2審判決は、17年12月~18年12月に計3回、京都市内のホテルなどで男性から計4千万円を脅し取った、と認定した。
高山被告は1審京都地裁の初公判で「恐喝しようと思ったことはなく、全く関知していない。私は無実です」と述べるなど、一貫して無罪を主張。
しかし、昨年3月の地裁判決は、高山被告が京都市内の料亭で男性に「今後もよろしく」と述べた点を、「男性を配下とし、みかじめ料の支払いを求めた発言だった」などと共謀を認定。「実行行為を分担した責任は免れない」と指摘し、懲役6年の実刑判決を言い渡した。
高山被告は控訴した。しかし、今年2月の2審大阪高裁判決も、高山被告から「いつもすまんな」と声をかけられたなどとする被害男性の供述を「ほかの関係者供述などと整合しており、信用できる」と判断。高山被告は別の直参組長らの恐喝を了解していたとして、控訴を棄却。高山被告はすぐさま上告した。
■信賞必罰の姿勢強く
一貫して無罪主張を続けた中での上告取り下げ。「早めに服役しておけば、体が動けるうちに『復帰』できると考えたのではないか」。ある捜査関係者はこう分析する。1年近く勾留されていたため、服役は5年ほどになる見込みだ。
「早期復帰」を目指すのであれば、もともと上告しないという手もあったかもしれない。これについては「その後に予想される若頭不在の体制に向け、組織を引き締めるための時間が必要だったのではないか」とみている。
この見方に沿うかのように、1審で有罪判決を受けて以降、直参の除籍や絶縁処分が相次いだ。
理由はそれぞれ違うようだが、「組織のタガが緩まないよう、信賞必罰を厳しくしたのではないか。例えば、資金繰りが苦しいとみられていた組織を退けているが、これも厳しい姿勢を見せたかったのだろう。社会的な暴力団排除の機運が高まり、シノギ(資金源)がどんどん細くなる中、資金力がある組織をつぶす必要はない」(捜査関係者)。
突然の上告の取り下げはこうした引き締めに一定のめどがついたと受け取ることができる。
■「嵐」呼ぶ若頭不在
山口組史上、現役若頭の不在はたびたび「嵐」を呼び起こしている。
代表的なのが、昭和59年から5年近くにわたり山口組と一和会との間で繰り広げられた「山一抗争」。
56年7月、山口組の全国展開を進め、現在の体制の礎を築いた田岡一雄三代目組長が死去した。後継の有力候補で、武闘派といわれた山本健一若頭は収監中だったが、刑の執行が停止されるほど持病が悪化。57年2月に帰らぬ人となる。
すると四代目の座をめぐり、山本健一若頭の後を継いだ竹中正久若頭と、山本広組長代行の間で主導権争いが表面化。59年6月に竹中若頭の四代目襲名が決定したが、山本広組長代行を支持するグループが「一和会」を結成すると、山口組との抗争に突入。竹中四代目組長と中山勝正若頭が一和会系のヒットマンに射殺されるなど血みどろの抗争になり、一和会が解散に追い込まれるまで続いた。
山口組にとって、こうした抗争は避けたいはずだ。金がかかるという理由に加え、平成24年に暴対法が改正され、新設された「特定抗争指定」を受ける恐れがあるからだ。指定を受けると、指定区域内にある事務所への出入りや5人以上の組員が集まることを禁じられる。破れば即逮捕の対象になり、一切の活動が封じられることになる。
組織の引き締めを成し遂げた上で早期復帰を図る-。捜査関係者らは、高山被告の上告取り下げをそうしたシナリオだとみている。
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