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山口組六代目組長を徹底批判!噂の「怪文書」を盛力健児・元直参組長が解明。戦慄の中身とは!?

 今夏、ヤクザ世界で密かに話題となった「怪文書」がある。ベストセラー『鎮魂』の著者、盛力健児・元山口組盛力会会長とともに、その真偽を徹底検証した!

 〈最近、山口組内部の動向が喧(かまびす)しい。インターネットや文書による百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の趣きである。歯に衣を着せぬ告発合戦はとどまるところを知らない。なかでも、文書については怪文書などと呼称すべき性質のものではなく、恐ろしく正鵠(せいこく)を射た真実の告知文と呼ぶべきものである……〉

 このような書き出しで始まる文書が、ベストセラー『鎮魂 さらば、愛しの山口組』(宝島SUGOI文庫所収)の著者で、元山口組直参、「盛力会」会長の盛力健児氏(73歳)のもとに届いたのは、今年8月下旬のことだった。盛力氏が語る。
「(文書は)盆過ぎに俺の友人(山口組関係者)のところに送られてきた。俺を名指しこそせんものの、(文書の)送り主は、その友人宛に送れば必ず、俺のところに届くことを知っている人間や。そして、俺の手元に届けば、表に出してくれると思ったんやろう。  確かにこの文書の送り主の名前は書いてへんし、出所も不明なんで、そういう意味では“怪文書”や。けれども、文章はしっかりしとるし、この中には、ただの怪文書と切り捨てられん話が含まれとる」

 文書はA4の用紙2枚に縦書きで、44字詰め70行、計約3000字にわたって綴(つづ)られているのだが、その中には盛力氏が『鎮魂』の中で明らかにした「中野太郎中野会会長襲撃事件」(平成8年7月10日)や、「宅見勝・五代目山口組若頭暗殺事件」(同9年8月28日)についても触れられている。
 当時の山口組を震撼させたこの二つの事件はいかにして起こったか、そして日本最大の暴力団「六代目山口組」の内部では今、何が起こっているのか……。
 盛力氏が自らの体験を交え、この怪文書を解き明かす――。

■執行部、幹部の醜態、悪業の数々は目を覆うばかり

 文書は序盤から痛烈な「六代目山口組」体制批判を展開する。

〈現在の執行部、幹部の醜態、悪業の数々は目を覆うばかりである。内部の噂話、悪口はするな、他団体に関しての話題も内政干渉にあたるなどと、さも仁侠界の伝統、掟を尊重するかのような態度を偽装しているが、所詮(しょせん)は自己欺瞞(ぎまん)と無能の所産である。逆に山口組の現状を組全体や他団体に知らしめれば、自身の信頼を失墜せしめ山口組自体が崩壊し、引いては自分たちの生命の危機さえ感じているからである〉

 さらにその批判の矛先は、六代目山口組トップとナンバー2、つまり司忍・六代目山口組組長と高山清司・若頭(今年6月24日に恐喝罪で収監)に向けられる。

〈組内組織に京都市内で会津小鉄会を使嗾(しそう)して拳銃襲撃させた事件(中野会長襲撃事件)は、現在の司、高山の正体を如実にあらわしている。つまり、全てが虚言と裏切りで成立っていると断言できる。所謂(いわゆる)、名古屋方式である。現在の山口組体制はそのことが普通の事として罷まかり通る異常な世界なのである。一旦、自分達が窮地に陥ると、山口組は互いに傷を舐(な)めあって助けあわなければならないなどと言いつつ、その裏では自分達の利に合致しないことには、どんなに身体を張って尽くした人間に対しても平気で裏切り、追い詰め追放する。この事は、司、高山という人物が、日本古来の渡世の掟や信義を知らない事に原因が求められる〉【( )は筆者。以下同】

 そして文書はこの後、〈ここまで山口組を衰退させ仁侠界全体を落としめた司、高山両名の陰湿な姦計(かんけい)を全て述べるには紙数が足りない〉としながらも、〈中野太郎会長襲撃事件と宅見若頭殺害事件から説き起こすことにする〉と述べ、本題へと入って行くのだ。

〈当時の中野会長の言動は先鋭的であり、宅見若頭、司忍弘道会会長、古川組長、桑田兼吉山健組組長、滝沢組長など殆どの山口組幹部は苦々しく、又、恐怖心さえ感じていた。桑田組長と盃のあった、会津小鉄会の図越会長も違った状況であるが恐怖を覚えていた〉

 ここに出てくる〈司弘道会会長〉とは当時、五代目山口組若頭補佐だった司忍・初代「弘道会」会長(現・六代目山口組組長)のことで、〈古川組長〉も同じく当時、若頭補佐を務めていた古川雅章・初代「古川組」組長(平成17年に引退、同18年に死去)のことだ。
 また〈桑田兼吉山健組組長〉は、桑田兼吉・三代目「山健組」組長(平成17年に引退、同19年に死去)で、〈滝沢組長〉は、瀧澤孝芳菱会」総長(平成20年に六代目山口組顧問、同21年に引退)のことである。
 桑田、瀧澤両組長も司、古川組長と同様に当時、若頭補佐として宅見若頭を支える山口組執行部のメンバーだった。
 そして文書は、中野会長襲撃事件の核心部分に迫っていく。

■中野会会長襲撃の首謀者は司忍・六代目……の真偽

〈そこで、当時、お人好しで少々軽いとの評のあった古川組長に司が接近し、嗾(けしか)け、桑田組長、宅見若頭に中野会長殺害を持ちかけたのである〉

 つまり文書の主は、中野会長襲撃事件の首謀者を、司・六代目山口組組長だと指摘しているのだ。そしてその理由を後段で次のように述べている。

〈何故、司はこれ程までに中野殺害に固執したのか。中野会長と司はともに大分県の出身である。司の出自、来歴について熟知していたし、とくに集団就職以後の大阪での履歴については詳細に把握しており、司にとって中野会長の存在は一生頭の上がらない目の上のタンコブだったのである〉

 だが、盛力氏はこの見方に異を唱える。
「中野襲撃の首謀者はあくまで宅見(勝・五代目山口組若頭)ですよ。ただ、司がそれ(中野襲撃)を知らんかったかといえば、そうやない。『鎮魂』を書いた時には(山口組に対する)刺激が強すぎると思(おも)て、敢えて名前は伏せたけれども、こんな文書が出回るぐらいやからもうええやろう……。
 中野が襲撃された直後、古川のマーちゃん(雅章・五代目山口組若頭補佐)と頻繁に連絡を取り合っとったのは司ですわ」
中野会長襲撃事件直後の山口組内の様子について、盛力氏は『鎮魂』の中でこう綴っている。
〈ところが、宅見に取り込まれとったんは、桑田だけやなかったんや。というのも、中野が襲撃された時、俺と親しい直参がたまたま、古川のマーちゃんと一緒におって、マーちゃんと別の(若)頭補佐とが携帯(電話)で話すんを聞いとった。
 その(盛力の親しい)直参の目の前で、マーちゃんと(別の)頭補佐は「もう(中野の)タマ(命)取ったか?」、「いやいや、死んでへん」という会話をしとるわけ。その後も、その頭補佐からは何べんもマーちゃんの携帯に電話がかかってきて、その度に「(中野は)死んだんやろ?」、「いや、それは間違いや」とかいう会話を繰り返しとったというんや……〉
 盛力が続ける。
「この〈頭補佐〉いうのが司のこと。つまり中野襲撃を仕組んだんは若頭の宅見やけど、司や桑田、古川や瀧澤ら、当時の頭補佐もみなグルやったんです」
 再び文書に戻ろう。中野会長襲撃事件について文書はこう続ける。

〈しかし、組内部での実行は動揺と不信感が増幅し組織がもたないとの判断から、(山口組は)会津小鉄会に白羽の矢を立てたのである。会津小鉄会は何故この計画に乗ったのか。客観的には図越(ずこし)会長が桑田会長との日常会話のなかから山口組内部の状況を熟知していたこと、即ち、渡辺芳則五代目(山口組組長)が意志薄弱で主体性に乏しく、執行部に対して強権的な発言が出来ない事、実行後の和解も容易だと踏んだからである。更に、会津小鉄会が最終決断を下した最大の理由は、図越会長が中野会長から多額の金の無心をされ断りきれずにいた事実である。併あわせて、中野会長が京都に住居を移したことと相俟(あいま)って、将来に対する不安と恐怖心が渦巻いて、永久に無心が続くならばと乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負にでたのである〉

 ここに出てくる〈図越会長〉とは当時、「四代目会津小鉄」の若頭で、実際に中野会長を襲撃した「四代目中島会」の図越利次会長(後に「五代目会津小鉄会」会長)のことだ。図越会長は中野会長襲撃事件が起こる5カ月前の平成8年2月、前出の桑田・五代目山口組若頭補佐らと五分の兄弟盃を交わしていた。文書はこう続く。

〈この中野襲撃に関して、襲撃を受けた現場の理髪店の窓ガラスが防弾に改造されていた事実がある。これは会津小鉄の襲撃を知る若衆がひとり抜け、中野会の組員となり襲撃計画を通報し迎撃体制を整えていたのである。
 この時、会津から桑田組長に襲撃計画が漏れているから実行を延期したいと再三にわたって申し入れが行われたが、古川組長や司の姿勢は強硬で、返(ママ)って日頃の軟弱振りを糾弾され実行せざるを得なかったのである〉

■怪文書の主は五代目時代からの直参で執行部にいた人物

 ここで改めて「中野会長襲撃事件」を振り返ってみよう。
 平成8年7月10日午前11時58分ごろ、京都府八幡市の理髪店に7~8人の男たちが2台の車で乗りつけた。
 男たちは車から降りると、理髪店を扇形に取り囲み、窓ガラス越しに店内に向け一斉に射撃を開始した。
 この理髪店は、中野会長の行きつけで、この時もちょうど散髪中だった。店内には当時、中野会長と理髪店店長のほかに、会長のボディーガードで、中野会若頭補佐だった高山博武「高山組」組長(当時)がいた。
 銃撃を受け、入口近くに座っていた高山組長は拳銃で応戦。さらにその直後、近くの路上で待機していた中野会組員らの車2台が、襲撃グループを挟(はさ)み撃ちにするように突っ込み、銃撃戦となった。
 これによって襲撃犯のうち2人が射殺されたが、中野会長は奇跡的に無傷で、歩いて帰宅。後に死亡した襲撃犯2人は、四代目会津小鉄系四代目中島会傘下の「小若会」と「七誠会」組員だったことが判明した。盛力氏が再び語る。
「散髪屋の窓ガラスが〈防弾に改造されていた〉かどうかは知らん。が、中野会が事前に、中野が襲撃されるという情報を掴(つか)んでおったのは間違いない。だからこそ高山(博武組長)はすぐに反撃できたわけやし、道具をのんだ(中野会の)若い衆らがそばに待機しておったのも、この文書の言う通り、会津の〈襲撃計画が漏れ〉とったからやろう」
 そして文書はこう続く。

〈この中野会長襲撃は失敗に終わり、会津小鉄側の形ばかりの詫びを渡辺五代目が簡単に受け入れ、その根回しを宅見若頭が率先して行ったことから中野会長の疑念は深まっていく〉

 この襲撃事件を巡っては文書の指摘する通り、その日のうちに図越会長ら会津小鉄最高幹部が、神戸の山口組総本部を訪れ、謝罪。宅見勝若頭や、桑田若頭補佐ら山口組執行部と「和解」するという“異例のスピード決着”が図られた。そしてその席には前出の古川若頭補佐も同席していたという。
 この日の山口組総本部の様子については、『鎮魂』に詳しく描かれているのでそちらに譲るが、さらに文書はこう続く。

〈以前、渡辺五代目の処遇について宅見若頭からトラック一杯の現金を中野会長に届けるから一任してくれとの申し出が為されており、其(そ)の事と相俟って宅見殺害への決意が深まっていく。宅見襲撃については、中野会長は渡辺五代目の同意を得てから実行しており、事件後の中野処分について二転三転する中、執行部が五代目を責め立て結局は絶縁となったのである〉

 この宅見若頭が中野会長に申し出たとされる〈トラック一杯の現金〉、そして中野会による宅見若頭暗殺事件への〈渡辺五代目の同意〉、さらには二転三転した〈事件後の中野処分について〉も、『鎮魂』の中で詳しく述べられているのでここでは触れないが、盛力氏はこの怪文書の主についてこう推測する。
「中野襲撃や宅見暗殺についてここまで知ってるんは、五代目(山口組)時代からの直参、それも執行部におった人間やろうな。今も(山口組の)中におるかどうかは分からんけど、司(組長)や高山(若頭)ら、名古屋(弘道会)の体制に不満を持っている幹部か、元幹部クラスの直参に間違いないやろう」
 そして文書は再び、現在の「六代目山口組」批判に論旨を戻す……。

取材・文/西岡研介(ジャーナリスト)

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